森田 遊よりご挨拶

16歳で天国へ召された弟は僕ら家族に強力なメッセージを残しました。
お別れの言葉など当然ありませんでしたが、
召された日が1月1日、
召された場所が神奈川県鎌倉市腰越1-1、
当日保護者父親が勤めてた会社の住所が神奈川県横浜市中区1-1-1、
弟を車でひいた加害者の生年月日が1月11日……

とまあ弟の死亡診断書を見たら恐ろしいくらい数字の1が並んでおり、
警察の方も大変驚いてました。

僕は人生は偶然という事はなくすべてが必然だと思っているので、
これは弟が僕たちにきっと僕を忘れないで!と伝えたかったのでしょう。

弟が亡くなる前の夏休みのある日、弟は湯浅君という親友を亡くしてます。

神奈川県の大磯海岸に弟と湯浅君とで泳ぎに行ったらしいのですが、
湯浅君が波にのまれて行方不明になってしまい、
救急隊の方が来て湯浅君を引き上げた時は息がなかったようです。

湯浅君のお母さんが駆け付けて、冷たくなった湯浅君に泣きながら抱きついていた姿。
そして親友の死がとてもショックだったのでしょう。
しばらく弟は僕らと家で会話もせず学校に行く以外はしばらく部屋にこもってました。

それから三ヶ月くらいたったある深夜。
当時大学一年の僕が最終電車で平塚に帰り駅から歩いてると、
家の近くで後ろからチャリンチャリンと自転車のベルの音が聞こえました。
何気なく後ろを振り返えったら弟でした。

僕は弟に「何やってんだよこんな時間に…」と言いました。
無理もありません。高校一年生の少年がしかも夜中の一時半頃、
しかも偶然ばったり会ったので驚きました。

すると弟が「兄貴、ちょっと海に行かない?」と言うのです。
僕も思わずいいよといい二人で近くの誰もいない平塚海岸に行きました。

あとにも先にも家の近くにある海に弟と二人でいったのはこの時だけでした。
また、弟の親友が亡くなってからしばらく会話はしていませんでした。

二人で深夜、誰もいない平塚の海の砂浜に座りました。
月の光と海の音だけの世界でした。

弟は砂浜に座り、すぐに海の方を見つめ遠い目をしながらすぐに語り始めました。

「兄貴。俺、湯浅が死んだのがいまだに信じられないんだよ。でもね、湯浅の葬式の時に
 湯浅がすごく好きだった甲斐バンドの曲がずっとずっと流れてたんだよ。俺はすごく感動したよ。
 兄貴。俺もバイク乗ってるから分らないから……俺がもし死んだら矢沢永吉のレコードかけてくれよな……」

僕はまさかその一ヶ月後に弟が本当に死ぬとは夢にも思ってませんでしたから、
一瞬、びっくりしましたが、あえて笑いながら、
「わかった、おまえが死んだら葬式でずっと矢沢永吉のレコードかけてやるよ……」

今でも海を見つめながらそうつぶやいた弟の横顔は僕の瞼にしっかり焼き付いてます。

でもあの時から一ヶ月。本当に弟は天国に召されてしまいました。

今でも矢沢永吉さんは大変有名なア-ティストですが、
当時も矢沢永吉さんはすごい有名な音楽家でした。

特にちょっと不良な若い少年たちに絶大な支持をうけてました。
弟の部屋は矢沢永吉さんのポスター。そして高校一年の弟は矢沢さんと同じリ-ゼントパ-マ。
いつも矢沢永吉さんを弟は聞いてました。

「兄貴これすごくいい曲だろ!」

得意げによく僕に聞かせてくれました。
確か『A DAY』というバラ-ドの曲が弟は一番好きで、僕もその曲は大好きでした。

「兄貴。父ちゃんに俺の生命保険たくさんかけてくれって言っといてね…
 でもね、俺は絶対死なないよ。だって湯浅が俺を守ってくれてるから」

今でもその弟の瞳、そしてその瞬間、昨日のような気がします。

弟が死んだその日の深夜に、
鎌倉警察から僕と両親が自宅に亡き弟と一緒に帰った時、

事故の日1月1日に弟と夕方まで一緒にいた弟の仲間達8人が
家の前で待っていてくれました。

亡き弟の身体をみんなで家に運び、
和室の部屋に布団をひいて本当に本当に傷だらけの弟を布団に寝かしました。
弟の友達は繁夫(弟)を見るなり「モンチャン」(弟のあだ名)と言って皆で号泣しました。
もちろん僕もお母さんもおじいちゃんもおばあちゃんも……この時僕の父親は泣きませんでした。
というか泣くのを必死でこらえてました。

それは鎌倉警察で弟の死体の確認に警察の人から父親だけが呼ばれました。
遺体の損傷が激しく、僕とお母さんも一緒に霊安室に行こうとしたら警察の方に止められました。

とにかく損傷の状態がひどいので…でも僕は父親一人でとても行かせられなくて、
警察の方に僕も行かせてくださいと頼み父親と二人で手をつなぎ霊安室に行きました。

僕は父親に一つだけ約束してくれ、と頼みました。
「お父さん、どんな事があっても俺の前で泣かないでよ」と。

遺体確認の時、実は顔があまりにもかわっていて、その時は親父と
「これ、しげちゃんじゃないよ。」本当にそう思いました。

いったん霊安室から戻り父親がもしかしたら人ちがいで繁夫は家にいるんじゃないかと父親が言い、
鎌倉警察の公衆電話から自宅に電話しました。

もちろん誰も出ませんでした。警察の方に「これは弟ではありません」と僕は言いました。

すると母が「私が見て来る……」。
警察の方は止めましたが、今度は三人で霊安室にいきました。

すると母は弟の足をさわりながらいきなり泣き崩れました。
「この足はしげちゃんの足よ……」と。

弟は無茶苦茶な時があり、生前学校の授業中、
手のひらにナイフで『心』と彫り入れ墨みたいに鉛筆のしんを入れてました。

「兄貴カッコイイだろ」。手のひらに『心』と彫った入れ墨のようなものに弟は自慢気でした。
僕は霊安室でその事を思だし、弟の右手をみました。

『心』と鉛筆のしんで描かれてました。
間違いなくその苦しそうな顔をした遺体は森田繁夫でした。

話が前後しますが、「お父さん、どんな事があっても俺の前で泣かないでよ」
見事に僕との約束を守ってくれました。バイクをかったのも父親。
どれだけ自分の息子が死んで悲しいか計り知れません。

でも父親はあの時の約束を守ってくれました。
僕が葬式の時、気が狂うほど泣いたときも優しく背中をずっとずっと撫でてくれました。
僕は今でも人情深い父親の涙は見た事がありません。

弟は16歳にもかかわらず、セブンスターという煙草を吸ってました。
弟の血だらけのズボンのポケットからセブンスターがその日に出てきました。
本当にかすかな血がついた煙草が15本入ってました。

僕は弟の仲間8人と、弟の遺体の前で血のついた煙草をふかしました。みんな泣いてました。
なんかこのブログを書きながら今、久しぶりにその時の事を思い出して恥ずかしながら涙が止まりません。

弟の葬式当日、弟の仲間に言って一日中矢沢永吉さんのレコードかけてました。
気が狂ったように……。

僕は本当に不器用で馬鹿みたいに一途で狂気なところがありますが、
弟のためにも何かしなければいけないのです。
弟の分まで生きなければいけないのです。
弟のために何か残したいのです。

だから絶対、人様の役に立ちたいのです。
今回のレコーディング。

矢沢永吉さんのスタジオでやらせて頂きました。
これは弟が導いてくれたのか……分かりません。

だけどレコーディング中ずっと心の中で、
「しげ……………今、お前の憧れの矢沢永吉さんのスタジオでレコーディングしてるんだよ」
ずっとずっと胸に手をあてて弟に語りかけてました。

 

森田 遊

 

 

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